2016年09月27日

日本の大学はどこに向かうのか

この間の中国経済学会では、もちろんヨーロッパ・イギリスが中心ですが、中国から参加している学者も多く、なんでこんなに多いのかなと不思議に思いました。

さまざまな学者と話した結果、わかったことは

行政当局、大学当局のランキングに対する思い入れが強く、現場では国際学会での発表(口頭発表、査読誌での発表含む)への圧力が大変らしい

ということです。多くの大学で査読誌への投稿、競争的外部資金の導入が義務付けられているようで、大変だと言ってました。

日本でも科研費の申請を義務付ける大学は少なくないとは思いますが、投稿までは何も言われていないと思います。しかも基本的にインパクト・ファクターの高い査読誌に投稿されることが進められます。

日本の話をしたら、やはり一様にみな長期的な研究ができないというデメリットを強調していました。日本では時間的制約は各教員に任されているので、積極的に成果を出してもいいし、ゆっくり練って時間をかけて発表してもかまいません。この意味で、日本の大学では、研究は教員の裁量にありますが、海外では研究は大学の裁量にあると言ってもいいでしょう。

日本では、ランキングに対する懐疑的な意見が多いです。日本に不利だというのもありますが、そのランキングですでに他のアジア諸国は勝負をしています。

9月23日に発表されたTimes Higher Educationの大学ランキングでは、オックスフォード大学が北米の大学を抑えて初の1位、そしてアジアからはシンガポール国立大学が24位にランクインしました。中国の北京大学が29位、精華大学が35位、日本の東大は39位、香港大学が43位と続きます。

このランキングでは教育、研究、引用、資金、国際化を指標にしています。国別でみてみると面白いことがわかります。日本はアジアの中で各指標の順位がそれぞれ7位、7位、14位、11位、15位となっています。つまり研究の引用が少なく、国際化も遅れているようです。

国際化は言語面でのハードルが高いです。それでも中国の有名大学はどんどん授業の英語化を進めているので、その差も出てきたのかもしれません。

知の手法(Discipline)の共通化、知(knowledge)の公共財としての共有化を考えると、英語言語による成果の共有とそれに基づく教育は時代の流れのように思えます。
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2014年05月13日

グローバル化における「多文化共生」とは何か?

大学では「グローバル化」という言葉とともに「多文化共生」という言葉がよく用いられます(ちなみに勤務先大学でも,多文化共生は建学の精神の現代的意味として使われています。)。浜松市では日系ブラジル人が多く,「多文化共生」は地域住民にとって身近な問題です。また,日本の労働人口の減少にともなって移民を受け入れるかどうかという議論が起きますが,移民受け入れ賛成はこの多文化共生政策に賛成していることになります。

多文化共生とは何でしょうか?例えば,ネットでググってみると,比較的きちんと触れていたのは埼玉県で,埼玉県国際課のHP(ここ)によると

多文化共生とは、「国籍や民族の異なる人々が互いの文化的違いを認め合い、対等な関係でそれぞれの能力を発揮しながら共に生きることです。」

とあります。

正直,言葉として分かってもどのように実践するのか,非常に難しいと思います。そこで私は,多文化共生とは「異なる認知フレームワークの交換」と定義しておきたいと思います。これにより,多文化共生を教育で実践できると思うからです。

(1)人は知らない人を敬遠する。

人間は知らない人を警戒する動物的本能を持っています。その知らない人たちが自分が思っていた行動と違う行動や違う言葉を喋れば,それは奇異に映って,恐怖が生まれることでしょう。黒船のペリーが日本にやってきて,日本が西洋人と接することになって大騒ぎしたのがこの状況でしょう。

国籍,民族が異なるということは,文化,背景が違うために物の見方(認知のフレームワーク)が違うということです。

一つ思考実験をしてみましょう。東京で住んでいる人と北海道に住んでいる人がいるとします。この2人が「新宿」で待ち合わせすることにしました。ただ問題は新宿のどこで落ち合うか連絡をしませんでした。この時,二人は日本の長寿番組「笑っていいとも」を知っていたとすると,おそらく新宿アルタ付近に行けば会えるのではないかと考えます。つまりテレビ番組という共通の文化的土壌があることによって,新宿での待ち合わせ=アルタ前という連想がしやすいと考えられます。「アルタ前」は文化が共通していると常識になります。

もし東京の人が来日未経験のアメリカ人とが同じように具体的な場所を指定せずに「新宿」で会おうとすると,どうなるでしょうか?アメリカ人にとって新宿の「象徴的な」場所はどこか知りません。となるとこの二人は会うことができません。文化的背景が違うとどこが一般的な待ち合わせ場所かということが一致しないと考えられます。これが国籍や文化の違いによる常識,あるいは物の見方(認知フレームワーク)の違いです。

異文化の人間同士がなかなか仲良くなれないのも,私たちが普通と思っていることが他国の人にとっては常識でないからです。いわゆる「理解できない」状態は自分と相手との壁を作り,下手をすると対立を産みます。

(2)「異なる認知フレームワークの交換」

それでは多文化と共生するとはどういうことでしょうか?ここで再度,多文化共生とは「認知フレームワークの交換」と定義したいと思います。異なる文化による認知の違い,それを「交換」することによって私たちは認知のフレームワークを拡大することが可能です。もしかしたら新しい認知フレームワークは,さらに新たな何かを生み出す可能性さえあります。

例をみてみましょう。

中国では,みんなで食事をした時に,直箸(口をつける方の箸さき)でおかずを取り分けて,お客さんのお皿に載せるということをします。これは食事を御馳走する側の最低限の礼儀です。

ところが日本では,大皿にのったおかずを取るときは,直箸ではなく取り箸か箸の方向を逆にして,持ち手の方でとりわけます。しかも大皿からとったおかずを人に与えることはせず,あくまで自分の取り皿に置きます。

日本人だと間違いなく,中国は下品だとなります。中国は中国で日本のやり方は失礼だとなります。まさに異文化が衝突した状況です。

認知フレームワークを交換してみましょう。

中国側は「手で持つ側は不潔であるため,食事をとる側としてはふさわしくない」と考えています。日本側は「食べる側は自分の唾液がついたものなので人に対して失礼だ」という考えです。どちらも相手を思いやっていることは同じですが,はしの使い方という認知の仕方が違っているだけです。

これらは長年の習慣であったり,文化的背景であったりするために,相手の認知フレームワークを受け入れることがはできません。それでも,相手の考えと自分の考えを交換することによって,新しい見方が得られたのは確かです。認知フレームワークを交換することによって,私たちは思考に幅ができるといっていいでしょう。(私は実際直箸の方がいいのではと思うようになったくらいですが。)

(3)多文化は新しいものを生み出す。

「異なる認知フレームワークの交換」は新たなものを生み出す可能性をもっています。人種のるつぼと呼ばれるニューヨークでは新たな流行や文化が発信されますし,多文化に比較的受容度が高いアメリカは,新しい技術が生み出されます。フロリダ(2007)の研究もそれをサポートしています。

またリドレー(2010)(書評はここ)も交換は社会のイノベーションに有益であることを指摘しています。英国のラビ長(ユダヤ教における指導者)であるジョナサン・サックスによると「違いが災いの元ではなく恵みになるのは、交換によってである。」とあります(コーエン2011,p.270)。

多文化共生とは,あくまで「認知のフレームワークを交換」すること,こう考えれば,実際に教育現場でも違いを生む見方を交換する学習を組み立てればいいことになります。


<参考文献>
リチャード・フロリダ(井口典夫)(2007)『クリエイティブ・クラスの世紀-新時代の国、都市、人材の条件』ダイヤモンド社
マット・リドレー(大田直子鍛原多惠子柴田裕之)(2010)『繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史(上)(下)』早川書房
タイラー・コーエン(2011)『フレーミング-「自分の経済学」で幸福を切り取る』日経BP社
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2014年04月29日

就職が難しくなった理由

ずっと疑問に思っていることがあります。それは

1.なぜ就職活動が難しくなってきたのか?
2.なぜ企業は主体性,コミュニケーション能力を求めるのか?
3.これらは大学の問題なのか,それとも社会の変化なのか?

といったことです。少なくとも私が大学にいた時代は,(大学の)勉強をしなくてもそこそこ就職可能でした。それでも社会に必要な主体性やコミュニケーションは身についてきたように思います。

最近は就職活動も大変ですし,企業は即戦力を求めます。いろんな議論をみてみると,大学進学率があがって大学生数が増加したとか,もともと大学になじまない学生も大学に進学しているとか,「ゆとり」で大学生の質が下がったとか,大学などの教育機関の問題としてとらえることも多いです。

でも,極端な話,優秀な大学を卒業する学生数が増えたわけではないので,私としては大学よりも社会が変化してきているからではないか,と感じるようになりました。

そのきっかけが『機械との競争』(ブリニョルフソン&マカフィー)という本です(エントリはここ)。IT化や情報化によって労働の質が変わり,どうも今まで普通に必要とされていた大卒レベルの人材像が変わってきたようです。IT技術の進歩や情報の発達で,多くの職業から普通の労働力が阻害されてきたようです。

そして,就職が難しくなってきた社会の変化をわかりやすく書いていたのが高橋(2013)でした。高橋(2013)はタイトル(『ホワイト企業』)と違い,職業のサービス業化,そしてそれに必要な人材育成とはどういうものか論じています。

とくにおもしろかったのが職業のサービス業化,そして産業構造自体がより製造業からサービス業にシフトしてきて,必要な人材像が変わってきているということです。

サービス業は仕事の個別性、専門性の二軸によって位置づけられます。個別性が低く,専門性が低いのは普通のコンビニやレストラン,ショップでの商品販売などです。ある意味マニュアル化が可能で,とくに必要な技能がなくてもできる仕事です。そして個別性が高くなると顧客接点サービス業務になります。介護,看護,高級宿泊施設や高級レストランなど,対応する顧客の多様性にあった適切なサービスの提供が必要になってきます。この意味で介護職員,看護師,ホテル業などは個別性の高いサービス業です。

ついでにいえば,これらは以前は専門学校でも提供できたものですが,専門性が向上しているために大学教育に移行しています。

そして個別性と専門性が高くなると医師や弁護士など個別に対応しながら他がもたない専門的知識でサービスを提供します。

IT技術の革新で,多くのサービス業がただのオペレーション業務,単純労働化しているようです。本書では鉄道乗務員の例をだし,鉄道運行のIT化が進むことによって,電車の運転士の仕事はオペレーション業務になりつつあり,専門性をどんどん習熟させていく必要がなくなってきているといいます。

またタクシー業界でも,長距離客をつかむのは運転手さんの経験とカンではなく,タクシーを電話で予約する客層だそうです。データにもとづいてそれらの客層にアプローチし,会社として営業することで収益があがります。運転手さんの業務は会社の方針に即したマニュアル化された単純的業務に変化していっているそうです。予約する客層の管理,丁寧な接客が可能なシステムの構築を考えると,このような仕事は専門性が高くなります。

このように社会の仕事はますます個別化,専門化していき,大学などで高等教育を受けた人材は,「個別」の顧客が必要としているものを,「コミュニケーション」を取りながら,専門性の高い(満足度の高い)解決策を「主体性」をもって考えなければならないという状況になっています。

製造業の時代は,機械が労働の代わりになって,人は機械を開発,オペレーションできる技術をもつ必要がありました。サービス業の時代も同じようにIT技術が人のできる職業を奪い,人はIT技術をマネージする能力や人と相対するコミュニケーション中心の業務に追いやられているのかもしれません。

<参考文献>
高橋俊介(2013)『ホワイト企業 サービス業化する日本の人材育成戦略 (PHP新書)』PHP新書
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2014年04月22日

「グローバル人材」の画一化を憂う

グローバル化とかグローバル人材という言葉が画一化していくことを最近心配しています。

日本社会のグローバル化対応にともなって,英語教育は重要ですし,英語で他国の人と渡り合っていく人間的強さも必要で,そのための教育は重要です。

大学業界では多くの大学で英語だけのコースや学部が作られるようになってきています。

上智大 総合グローバル
創価大 国際教養
関西外国語大 英語国際

が平成26年度から開設されましたし,学習院大学も来年度開設予定のようです。

どこも世界で渡り合えるグローバル人材育成というのが目標ですし,どうしても,英語での教養教育なのでカリキュラムが似通ってきます。その意味で,グローバル人材が画一化するんじゃないかと心配します。

また大学内での「留学生」に対する対応も画一的になっています。留学生を増加させる方策は海外事務所の展開であったり,奨学金の充実だったりします。また留学生の就職支援も留学生セミナーの開催など,これも似たり寄ったりです。

もっとも問題なのは「留学生」という括りです。実際には来日時期がさまざまなわけで,私たちが「留学生」と聞くと,「高校まで現地で暮らしていて,日本の大学に来る」という学生です。でも現実の大学入学者の中には,アジア(フィリピン,中国,南アジアなど)出身のご両親(あるいはどちらか一方)を持つ学生さんも増加しています。日本で出生した人もいますし,来日時期が小学校から高校までさまざまです(したがって日本文化理解のバックグラウンドはずいぶんと違う)。

「留学生」という言葉の捉え方が画一的なために,その対応も画一化するように思います。

山内太地さんのブログで知ったのですが,都立高校生対象の留学支援「次世代リーダー育成道場」の小論文のテーマにびっくりしました。

「現在、経済・社会のグローバル化が急速に進んでいます。その中で、日本人としての自覚と誇りを身に付け、多様な文化を尊重できる態度や資質を有する人材が求められています。こうした人材が求められる背景や理由について説明しなさい。」

山内太地さんも指摘していますが,来日時期がさまざまで,国籍は外国だけど日本で育った人は応募しにくいテーマだな,と思いました。

現実のグローバル化への対応は多文化に対する免疫力を作ることではないかと思っています。

例えば,日本の国内をみても,埼玉県蕨市(わらびし)にはクルド人社会があったり,三郷市にはパキスタン人が集まっていたりしています。そして宗教的にもイスラム教の人々が日本の各地に点在しています。この意味では日本の地域社会もグローバル化しています。

このような現実にすすむ多様化されたグローバル化を意識しなければ,ただ単純に英語ができてアメリカとわたりあえる程度のグローバル化とグローバル人材になりかねません。

現在のグローバル人材という言葉は,現実社会で進行している多様化に対応することを意識できているのかどうか,大学業界に身を置く者として肝にめいじておきたいと思います。
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2014年03月27日

授業準備の季節

大学という1年が学事歴で動いている職場で働いていると,あ〜この季節がきたか,という感慨を持つことがあります。

3月は卒業シーズンで,4月になると新入生が入り,新しい一年がはじまります。

とくにこの時期,授業準備が大変になってきます。正直,新年度の授業準備を3月にはじめると,あ〜いよいよ授業がはじまる,という感慨とともにプレッシャーがかかってきます。

同じ授業ネタを繰り返し使っている人(笑),あるいは何十年も大学教員やっていて授業に悟りを開いている人(笑)は,そんなプレッシャーはないんでしょうけど,毎回の授業をふり返って,メモをとっている私としては,そのメモを利用しながら改善に取り組んでいきます。時期的に追い込まれてから準備を始めるのでこの時期妙なプレッシャーがかかります。

授業期間中に書いた振り返りメモをみて,あ,そうだこんな資料あれば便利だったな,と思い出しても資料作りがタイムオーバーになってまた来年に先送りというのもあります。普段から授業準備をこつこつ積み上げればいいのですが,授業期間中でもやりたい研究や負われる原稿もありますし,長期休暇に入れば,授業のことをすっきりわすれてしまって,研究をやってしまいます。そして3月も後半に入ると授業準備にあせるということになります。(ん!?これは私だけか?)

また授業準備には「終わりがない」というのもくせものです。毎年受講生が変わると雰囲気や理解力に差が出るのはあたりまえで,さまざまな脳内シミュレーションを行って授業準備を行います。あれもやりたいこれもやりたいなど内容を充実させるのはもちろんのこと,私はグループ学習などアクティブラーニングも導入しているので,学生たちが喜々として取り組めるネタ作りやうまく回らなかった時の代替案などを考えるとほんとキリがありません。

ということで大体のところで,自分に言い聞かせて,授業準備が終了するといったことになります。

一方で,大学教員は研究には力が入ります。研究は成果が見えるのと終わりがあるからです。教育には学生という「生もの」(変な意味ではなく)を相手にして行われます。反応をみながら「あ,今日はいい授業ができたな」とか「今日のやり方や内容は今一歩だな」という感想を持ちます。実際には,後者の感想を持つことが多いので,授業の成果というものが目に見えてわかりません。

研究は成果が見えます。成果は雑誌論文や本になって現われます。また研究には終わり(というか「区切り」)があります。ある程度内容がまとまったら投稿して,レフリー意見をもらって改稿し,ジャーナルに採用されたら一区切りですし,成果となるので達成感もあります。(でも現実には,今2本ぐらいリジェクトされたり,厳しいレフリー意見をもらったりして,修正をどうしようか寝かせている(あるいは自然死しているww)ものもありますが。)

・・・とそんなことを毎年思いながら,この時期授業準備に追われていますあせあせ(飛び散る汗)
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2014年02月04日

退学と就職

毎日新聞に「大学中退:文科省が全国調査へ 年6万人以上、防止策検討」とありました。

学校教育基本調査によれば大学生の数は256万人です(平成25年)ので,記事にある中退者数約7万人で大まかに計算すると,中退率は2.8%です。記事にもあるように私立大学の中退率は3%程度と言われています(ちなみに本学の中退率は3.6%)。

3%の退学率から簡単に大学の現状を考えてみたいと思います。

3%の中退率とは,入学者数100人の学科では,毎年3人ずつ退学していき,4年後には12%,12人が退学していくということになります。留学や休学等を入れると4年で卒業する学生は8割程度ぐらいになるでしょう。

就職に話を移すと,この4年間で卒業する学生のうち9割が就職を希望し,1割が進学(大学院や専門学校)としたとすると,約80人が就職希望になります。これが分母となって就職率が出ます。就職希望者の就職率が9割だとすると,正規の就職者数は72人になります。

中退した学生はどうなるでしょうか?

記事によれば,退学した学生の半分は非正規雇用に,14%が無職になるといいます。ということは,上記のシミュレーションでいうと,12人の退学者のうち6人は非正規雇用になり,2人は無職になる可能性があるということです。

まとめると

100人私立大学に入学して,

4年後正規就職を果たすのは70人程度です。(実際には6割強だという話も業界内ではあります。)

退学するのは,12人程度です。(うち雇用に不安が残るのは8人です。)

というのが現状です。

これを高いとみるか,低いとみるかはなんとも。。。。続きを読む
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2014年01月16日

日本人学生の海外留学

1月10日(金)にJPI(日本計画研究所)主催のセミナー

「徹底した国際化を断行し世界に伍して競う大学に向けて」
有賀理(文科省高等教育局高等教育企画課国際企画室長)

に参加してきました。文科省の議論等は私大協で得ていたのですが,今回のセミナーで面白いデータを知ったので,それを紹介。

日本人学生の海外留学では,

2004年の82,945人をピークに2010年は58,060人に減少している。
(主な留学先は2010年で21,290人が米国,16,808人が中国)

米国の大学に在籍する日本人学生は(つまり学位を取りに行く学生)

2001年の46,810人をピークに2011年の19,966人に減少している。

ところが,学生交流に関する協定等に基づく学生の留学数は

2001年の13,961人から2011年の36,656人に上昇している。

ここから言えることは,自らの選択として留学に行こうとする学生は減っているのかもしれませんが,大学側が制度化した留学に参加する学生は増加しているということです。この意味で大学が用意する留学プログラムは学生の国際化に有効なのではないかと想像されます。

そもそもなぜ大学でグローバル人材の育成が必要なのでしょうか?

有賀さんは,新入社員が内向き傾向にあること(2001年は3人に1人が海外で働きたくないと答えていたのが,2010年には2人に1人になっている。(産業能率大学の調査)),しかし日本企業の海外売上高はリーマン・ショックで減少したもののそれでも3割を占めており,とくに中国など東・東南アジアのシェアは大きくなっていて,4分の3近い企業が課題として「グローバル化を推進する国内人材の確保・育成」をあげていること,を指摘しています。

このような現状を鑑みると,大学自体がグローバルな視野をもてる人材を育てるために,留学プログラムを充実させる必要があるといえそうです。
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2013年11月26日

卒論の問題設定の仕方

この時期,卒論指導も大詰めです。うちの学部は12月中旬が提出締め切りのため,あと1ヶ月を切りました。

卒論指導で難しいのは「問題設定」です。問題をどのように設定するか,この良し悪しで卒論の出来が左右されると言っても過言ではありません。

愚痴にならないようにしたいのですが(笑),悩ましいのは学生から「何をテーマにしたらいいのかわかりません」「とくに興味がないので何をやろうか悩んでます」といった相談を受け,「う〜ん」と唸ってしまいます。

中国経済を中心にしている岡本ゼミでは,中国に関することでテーマ設定を勧めます。でも中国という国に対して知識が少ない学生にとって「問い」を立てることは簡単ではありません。ある程度の知識がないと,外国を対象とする分野の場合,問題意識を持ちにくいです。そのために外国に行く,あるいは読書で知識を広げる必要があります。

とはいえ,とくに中国に関わることもなく受け身でやってきた学生が4年になって主体的に卒論のテーマを立てることは難しいです。こんな時,私は以下のような問いを立てることを薦めています。

「◯◯とは何か?」→「△△である」

例えば,「中国の戸籍制度とは何か?」という問いを立てて,とりあえずの答え(仮説)として「農村戸籍と都市戸籍の二つがあるもの」という答えを学生自身で用意させます。実際にそうなのかどうか,戸籍制度の資料を収集させて考えさせます。

この作業を通じて,新たな疑問が起きれば,それをテーマに調べさせていきます。結局,「何?」というテーマについて自分なりの答えを用意して調査をする,そのプロセスの中で疑問を作成していこうということです。

でも,卒論は時間制約があります。「何?」という問題意識で調査した結果は,一般に論文というよりも調査レポートのようなものになってしまいます。中国の戸籍制度調べました!的なものは,読んだあと「だから何?So what?」ということになりがちです。

やはり問題設定の王道は「なぜ〜なのか?」だと思います。良い問いが立てられると,みな「知りたい」と思うので興味もわきますし,読み手からも期待されることとなります。良い論文とは「?」で始まり「!」で終わるものです(鹿島2003)。

普段から日常生活で「なぜ?」という問いを持つように学生に言ったりしますが,自分もできていないので(汗),この指導はあまり意味ありません。今のところ上記で述べたように,「何?」という疑問から調査していって考えるという方法がうちのゼミでのやり方です。


ちなみに,どのような問いをたてるのか,問題設定の仕方で参考になったのは,以下の本です。問題設定を考えるヒントがつまっていました。オススメです。

鹿島茂(2003)『勝つための論文の書き方』文春新書

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2013年11月21日

ミニッツペーパーは役に立つのか?

授業改善の方法として,出席カードやちょっとした紙を配って,授業の感想,学んだこと,疑問点,理解度を授業終了時に記入してもらうミニッツペーパーというのがあります。(あるいはリフレクションペーパーというのもありますが,やっているのは同じことです。)

大学に移って間もない頃,このミニッツペーパーというのを一時期導入したことがあります。

わかりやすかった,理解が進んだ,などの肯定的評価が大部分なのですが,○○が難しかったとか,○○はどういう意味ですか?など疑問を書いてくれるものもありました。

一般にミニッツペーパーは,学生の理解度を確認して,当該授業の中身の構成や内容,そして説明の仕方をふりかえって改善するのに使われます。

場合によっては,難しかった回について次回の授業で補足説明をするということになります。

ただこのミニッツペーパー,私の場合二つの問題に直面しました。

1)授業内容に改善を反映するのは次回(つまり通年であれば1年後,半期であれば半年後)になります。講義用ノートに問題点をメモしても,意外に思い出せないということがありました。もちろん私のメモの書き方の問題ですが,LIVE授業の問題点を反映させてLIVEで再現させるというのは難しいということです。(何かいい方法あるのかな??)

2)内容理解が進んでいない,という回答では,中には基礎知識が足らないということもあります。学生も千差万別なので,高校社会のみならず社会的出来事に敏感な人もいればそうでない人もいます。往々にして知識の足らない学生がいるからといって,全体の授業の中でそこだけ知識補充するのは難しいです。(こんなことも知らないのかでスルーするのではなく。)

つまり,ミニッツペーパーを使った授業改善がうまく回らなかったというのが実情です。そのため1年ほどやってみてやめてしまいました。

もしかしたら,当時の科目では履修者数が少なかったので,個別の対応になるので,ミニッツペーパーという授業全体を振りかえることにならなかったのかもしれません。少人数の場合は,学生一人一人の表情もみえるので大体理解度は雰囲気で伝わるものです。

ミニッツペーパーをうまく授業改善に活用している人の意見を聞きたいものです。私にとって,ミニッツペーパーは結局学生自身の学びのふりかえり程度にしか使えないのではと思っています。
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2013年11月14日

文系学問はOS

文系学問の役割は,教養としてのOS(オペレーティング・システム)だと思っています。

社会で生きていく上では,新しいものを認知し,理解するための基礎力が必要です。問題や課題を解決するためのスキルをもつことも必要です。

理解の基礎力は,人文や社会科学などを幅広く勉強することによって,多くの知識を得て,その知識によって,新しい出来事を理解する類推力をつけることに役立ちます。

典型的なものは歴史です。歴史についての知識を持つと,現在起きている出来事を過去にさかのぼって判断する材料を探し出すことが可能です。

問題解決スキルは,未知の問題に対してそれを乗り越える手法を得ることになります。文系では,仮説ー検証ー結論というフレームワークが徹底的に鍛えられます。起きている問題に対して,何が問題か,何を解決すればよいのか,という問題設定,その問題を解決するための手がかりを仮説として,実際にやってみて,違ったら再度別の方法を試してみるという検証,これら一連のスキルが社会で生きていく上での基盤となります。

大学での勉強は,理解の基礎力をつけることのみならず,課題解決のスキルを磨くものでなければならないと思います。理解の基礎力では幅広い読書によって知識を得るとともに,そこから一歩進んで,何が問題か,課題を見つけることが必要です。でも実際にはなかなかこの課題解決スキルを身につけるのが難しいのが現状です。

理解の基礎力と課題解決スキルの両輪を自分のオペレーティングシステムとして身につければ,さまざまなアプリ(社会で戦う武器)を積むことが可能です。OSの脆弱性をなくせばなくすほど,多くのアプリを積むことができます。社会に出た時に,どれだけアプリを積むことができるか,大学時代の勉強にかかっています。
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2013年09月10日

教育における『見守り』

教育において,「見守る」ということが一番難しく,でも一番重要なものはないんじゃないかと思っています。

大学教育の目的は,

自分で考え判断し,何か新しいものを生み出す人間になること

だと思っています。俗な言葉で言う主体的に行動する人のことです。ただ動くのではなく,環境から得られた情報を適切に処理し,新しいことを生み出すことのできる人です。何か新しい価値を付け加えないとこれからの社会で生きていくのは難しくなってくるでしょう。

例えば,セールスという仕事についたとします。なかなか人が話を聞いてくれないという環境の中で,自らが工夫し,新たに人に話を聞いてもらえるような技術を磨く必要があります。自ら本を読んで知識を得たり,それを試してみて,うまくいかなければ,修正して再度試してみる,このような循環の中で,自分スタイルのセールス方法が確立していくでしょう。

私たちの学びにはループがあります。

まずやってみます。その結果を情報として処理します。その後うまくいくための仮説を立てます。その仮説にもとづいて再度やってみます。またその結果を検証します。

このループには,「仮説を検証する」という作業が欠かせません。これが大学教育で重要になってきます。

最新の学術成果という知識の教授,「教える」ことも重要です。でも,最終的には自分で学びのループを確立し,主体的に考え行動できるようにすることが重要で,そのためには「見守り」という観察行為が必要になります。なぜなら,なんでも教えていると指示待ち人間になってしまうからです。

学びのループの中で,どこで躓いているのか。この学習者は1人で学びのループを回せないのかどうか。

1人でこの学習ループが回せない時,どこで躓いているかを見極め,適切なヒントを提供するというのが「教える」ポイントになるでしょう。

でも,教育で難しいのはこの「見守る」ということです。学びのループ(仮説検証)を意識して,毎日の教育活動を行っていきたいものです。




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2013年05月28日

大学の新設と「共有地の悲劇」

大学の新設,学部の新設が続いています。

おかしいです。学生の数が減少して,私立大学の半数が定員割れしていると言われるにもかかわらず,大学業界に参入(新設)あるいは新商品の展開(学部学科の新設)が盛んです。

なぜ大学を増やすのか,多くの人は疑問に思います。例えば

「なぜ、日本で 今でも大学を新設しているのか、本当に不思議だ。経済の基本的原則を考えれば、大学に入学する学生の数が減っていく日本で、(大学が)生き残れないのは明らかだ」と、東京の桜美林大学大学院の諸星裕教授は語る。(現代ビジネスの記事

です。

多くの方が経済学を誤解されています。経済学から考えるからこそ,18歳人口の減少がさらなる大学新設,学部新設を促しているのです。

この理由を正しい経済学で説明します。

あなたが大学の経営者になってみましょう。売上(収入)は学生の授業料がメインであると仮定すると,どのように行動するでしょうか?

合理的な行動は,入学学生数を増加させることです。そのために学部を増設する,短大を4年制にするという戦略がもっとも効率的といえるでしょう。キャパシティを増やしてより多くの学生を集めたいからです。

専門学校,短大が4年生大学になるのは簡単です。学部を増設する,短大を4年制にするには既存の施設を使うあるいは拡充するだけですので,費用は抑えられます。

大学は固定費用の大きい産業ですので,今ある施設を活用する方が費用が低く押さえられます(限界費用は小さい)。

一方で,限界便益は期待収入です。私立大学の学費を100万円とすると1人の入学で400万円の収入が期待できます。人数が拡大した分だけ収入が拡大します。

大学の経営者としては,衣替え(短大や専門学校を大学にする)やリニューアル商品(学部改組),新商品(学部新設)の提供がもっとも合理的な選択となります。(小売店や飲食店が店舗拡大に走るのと似ている。)


「共有地の悲劇」(ギャレット・ハーディン)というのがあります。これは共有資源が乱獲されて資源が枯渇するという現象です。

例えば,牧草地を考えてみましょう。あなたは牛を放牧して牧草地のいい草を食べさせていい肉牛に育てたいと思います。みなが同じ事を考えると,多くの人が牛を牧草地に放牧し,最後には牧草地の草がなくなってしまうということになります。

この「共有地の悲劇」は,個人の合理的行動が社会的ジレンマを招く事例,です。

18歳人口の減少と大学の増加は,1大学の経営拡大という合理的な意思決定を生み,学生という共有資源が乱獲されるという「共有地の悲劇」をもたらしています。大学や学部の新設は経済学的には合理的なのです。でも社会的にはジレンマ状態になっているといえます。

社会的ジレンマの発生により大学の意味がさらに問われるようになりました。

学力のない学生を入れている,勉強させないまま卒業させている,と批判されるのが大学です。大学が学生を乱獲し,将来への重要な資源を枯渇させている可能性があります。

学生という将来の日本を背負って立つ人材をどのように育てるのか,どのような教育を提供できるのか,大学間の本当の競争が迫られているといえるでしょう。
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2013年05月21日

選択の自由と勉強

生きていく上で,選択ができるというのは幸せなことです。

生き方を強制されるよりは,自分で生き方を決めれる方がいいのは誰もが納得できる幸福の条件ということがいえるでしょう。

自分で進学先を決める,仕事を選ぶ,配偶者を選ぶ,などなど自分で選択できるのは,幸福の必要条件です(十分条件ではないけど)。シーナ・アイエンガー(2010)も心理学の実験等から選択ができるということは人生の幸福感にとって重要であることを強調しています。

さて,なぜ勉強するのか?という問いがあったときに,最近私は「選択の自由」を手に入れるためだと言っています。勉強することは自分の知識を拡大し,能力をアップさせることです。これは生きていく上で「選択」という幸福の手段を手に入れていく過程です。

ここで,選択の自由について,自由には二つの内容を含んでいます。

一つは選択の幅を広げるということです。

学ぶ,勉強するということは知識が広がります。本を読む,授業で知らないことを学ぶ,という行為は今の世の中で起きていることを知るということです。小説であっても人の生き方について学ぶことが多いですし,自分の体験できないことを活字で体験することが可能です。

これにより自分の社会貢献のフィールドが広がります。

資格試験の勉強もそうです。資格を得ることによって社会で働く知識を得て,自分の職種を広げることが可能になります。

もう一つは選択の能力をアップするということです。

学ぶということは学ぶ方法を身につけるということにつながります。社会で働くと自分の知識が足らないことに気づかされます。そして知らないことを学ぶことによって,選択の能力をつけることが可能になります。

わからないことを調べる,多くの情報を手に入れることによって,自分の眼前にある選択肢を増やすことが可能となり,よりよい選択ができます。

この二つの意味で,学ぶということは「選択の自由」を手に入れることができるわけです。


<参考文献>
シーナ・アイエンガー(櫻井祐子)(2010)『選択の科学』文藝春秋
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2013年04月25日

費用対効果

せちがらい世の中だな〜というエントリですが。。。今回も教育について。

学校予算はキツキツになってきています。私立大学の重要な収入源は学費収入と政府からの補助金です。

大学入学が容易になってくると、退学率が問題になります。とくに入りやすい(いわゆる偏差値が低い)大学では、面倒見のよさをアピールしつつ、就職のための力をつけるために四苦八苦しています。

退学が出ると、学費収入が減ります。教育的にも退学率は問題ですが、経営的にも退学率を減らすことは重要なのです。

安定した収入を確保することによって、安定した教育環境を提供することができます。とくに各大学は予算をもとに毎年学生のためにさまざまなプログラムを用意し、提供しています。

単純には、学びの多様化にしたがって多様な学問が学べるように多くの科目を開講し、非常勤講師を雇います。

英語教育や資格試験のために、対策講座を用意します。(もちろん一部は受益者負担としますが。)

就職を見据えた外部講師、セミナー、診断テストのようなもの等、キャリア教育にもお金が使われます。

昔は、学費、補助金以外にも受験料収入というのが収入の柱だったそうです。受験生が増加している時代は、収入も安定的であり、その分教育予算も潤沢でした。

ですから多くの私立大学が非常勤講師を抱えたものです。今は予算削減でどこも非常勤講師の削減に取り組んでいるのが現状です。

一方で、入口でつまづかないようにする導入教育、出口(卒業)を見据えたキャリア教育が重要になってきています。大学が抱えている専任教員で実施できるかというとそうはいかないのが現状で、どの大学も新規に人を採用するか、外部のプログラムを購入することとなります。

いずれにせよ、教育環境の提供には予算が必要なわけです。

その予算が、退学率の上昇、受験生の減少、補助金の見直し等、削減圧力が高まっています。その予算縮小の圧力の中、多くの大学が独自の教育をどれだけ展開するか、頭を絞っています。

もちろん本学もその一つなわけです。

「学生のために」という言葉のもと、いろいろ案を絞っては、予算を申請します。全部が実行できるわけではないので、最終的には一部の提案しか実行できないのが現状です。

一方で、これ無駄じゃないかというような予算が認められたりします。記念撮影とかオリエンテーションでのお弁当とかです。

「学生のために」という文言は、多くの人の発言を黙らせる金科玉条です。学生のためなんだから必要だといわれると、なかなか反対しにくいのが現状です。

でも本当は「教育効果があるのか」どうかという観点が必要なように思います。教育のためにお金を使う以上は、どのような効果が期待されるのか、その期待はどのよう形で計測できるのか、そしてその効果と投入した費用を比較して、その教育プログラムを実施し続けるかどうか検討する必要があろうと思います。

教育効果は目に見えないものだと反対されるのですが、それでも効果を数量的に測定できなくても、定性的に言語化して説明する責任はあるかと思います。

せちがらい世の中です。大学教育であれば、おおらかになんでも学べ、という環境がいいのですが、出口を考えると教育効果がない教育予算の実施は無駄になります。

この意味で、大学教育自体も「ゆとり」から「効率」や「結果」が求められてきていると思います。

書いててやっぱりせちがらいなぁ,と。。。
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2013年04月23日

『どのような教育が「よい」教育か』

どの大学でも教育目的にしたがって科目が配置されるカリキュラムがあります。たとえ自分のやりたい勉強を提供してくれる学部に入学できたとしても、カリキュラムの中にすべて満足のいく授業が配置されているわけではありません。

「アジア史をなぜ学ばないといけないんですか?」
「中国経済に興味ないのに選択必修だからとらないといけない」

といった事態が発生します。

小学校の時に思った

「算数はなぜ勉強しないといけないか?」

的な疑問につながります。「〜をなぜ勉強するの?」と親に聞く時は、そもそも「やりたくない」という意思表示になっています。「なぜ勉強しないといけないのか?」=「勉強する意味がわからないので勉強したくない」になっています。

何を学ぶか、何を教えるかについて考えさせられる本を読みました。




人は「自分の生きたいように生きる」という欲望を持っています。この欲望を満たすこと、自由こそが重要な価値です。人の自由を保証し、そして他人の自由も保証する、これが社会で最も重要な価値であるとします。


そこから苫野さんは教育をこう定義します。


「教育とは何か。それは「各人の〈自由〉および社会における〈自由の相互承認〉の〈教養=力能〉を通した実質化」である。どのような教育を私たちは「よい」「正当」といいうるか。それは〈一般福祉〉に適う、さらにいえばこれを促進しうる教育である。」(苫野2011、p.211)


「実質化」のために教育が必要となってきます。何を学ぶかは各人の生きたい生き方に依存するのでさまざまになります。したがって何を学ぶかは自分がどのように生きるかのかという自分の主体性に依存します。自分がどのように生きるのか、これが何を学ぶのかにつながってきます。

となると学校という組織が提供するカリキュラムには限界が出ます。大人が何を学ぶかを用意しているために、生徒学生は学びの制限を受けることとなります。

苫野さんは学ぶことの内容についても3つ提案しています。

ひとつは基礎教養、二つ目は学ぶ方法、三つ目は社会でお互いの自由を承認するためのルール感度、です。

最低限の知識がないと社会で生きていく自由を獲得できません。自分の自由を広げるためには広い教養が必要となってきます。

また社会はさまざまなことが起きるために、新しいことを常に学び続けなければなりません。そのために学校教育で、自分での「学び方」を確立する必要があります。

最後に、社会は自分と他人によって構成されています。自分の自由を大きくしようとすれば相手の自由を制限することになることもあるかもしれません。スムーズに生きることができるように社会にはルールがあります。そのルールを受け止め、遂行する能力というのは社会において必要なことだと思います。

苫野さんは教育の方法についても議論をします。

教えこむ(知識の詰め込み)がいいのか、経験(体験学習)がいいのか、という問題です。大学でも座学からアクティブ・ラーニングへの流れがありますが、まったく同じ事です。

二者択一的な疑問の建て方ではなく、学ぶことの到達目標を意識し、その目標に到達するためにどちらがいいのかを考えるべきだとしています。

大学でも近年はシラバスに学習目標を書くように指導されます。ここが教員の悩みどころでもあります。


さて、最初の問題意識に戻ります。

アジア史を学ぶ意味がわからない
中国経済を知らなくても生きていける

という意見があります。まさにその通りだと思います。いくらアジアを勉強したいと思っても、歴史に興味がない、特定地域(ここでは中国)に興味がないということはよくあることです。「アジア」という学問は知識があれば「へ〜」といわれる程度の教養的学問です。

教養である以上、学生も自分の興味のないものは選択しなくてもいいはずなのですが、時間割の配置や必修という縛りによって、興味ない科目を履修する可能性があります。

これが学校という組織化された学びのカリキュラムの限界です。

どうすればいいのか、ここはやはり教師の工夫が必要になってくるでしょう。

あまりおもしろくないと思われる科目でも、「へ〜」と目からウロコ的なものを提供出来れば、学生の学ぶ意欲につながります。

あるいは題材には興味がわきにくいが「学ぶ方法」について身につく授業を展開すると学生の満足も上がります。

あるいは学問には本質的に共通する部分があったりするので、それを伝えると他の分野への応用が聞くので、学問の有機的連関を学生が感じ取り、学問の面白さ、奥深さをしることができます。

授業科目というのは

「なぜ勉強しないといけないのか?」

と問うのではなく、勉強の科目が私達に「どう学ぶのか」「どのように学ぶのか?」という姿勢を問うていると思います。どのように学ぶかを教えることができれば学生の満足度もかなり高くなるのかもしれません。
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2013年01月22日

新自由主義的教育思想

以前学生さんから、

なぜ学生を叱らないのか

と聞かれたことがあります。私はあんまり叱ることがありません。それはなぜかと考えていたら、私の教育思想は経済学から来ている、ということに気がつきました。

私は基本的に新自由主義者です。政府の関与は少ない方がよいという立場です。個人は自由であることが最も大事なことで、政府による個人への関与は少なめに、と思っています。

人は自分が最も得だと思うことをやっている、と思っています。学生が授業を休むのも、何かと比べて、授業よりも大事なことを選択している結果なんだと思います。

もちろん授業で出席を重視している場合には、学生に声をかけます。でも叱ってまで強引に出席を強要することはないです。

もちろん学生は若いわけで、たまには非合理的かもしれない行動を取ることもあります。でも、基本は自分の選択肢の中で最もいいものを選んでいるはずです。

人に何かを強要することはある意味選択肢をせばめることです。この選択の自由を狭めることは私にとって違和感、を感じます。

経済学では景気の見方について、二通りあります。一つは円満な家庭のようにうまくいっている、という見方、もう一つはうまくいってないので人が関与すべき、であるというものです(バウマン2012)。

前者は新古典派で、後者はケインズ派です。両者の見方の違いは失業率によく現れています。

前者は失業があっても自然失業、自発的失業と見ます。後者は不完全雇用と見ます。前者は失業を悪いことととらえておらず、一時的なものと考えています。後者は失業はよくないこと、だから政府が失業対策のために景気対策をとるべきだとなります。

私は大学で経済学を習った時にケインズ政策を批判する先生の影響を受けたようで、どちらかといえば新古典派です。経済は構成している経済主体が合理的に行動した結果なので、うまくいっていると考える方です。それに政府が関与しても必ずしもいい結果になるとは思いません。むしろ経済の自律的な回復過程を妨げるかもしれないと思う方です。

人の成長にも同じように考えるところがあります。成長はしているが、波はあるものです。うまく勉強が進む時、進まない時もあるかもしれません。進まない時に、勉強しろ、と関与しても勉強するようになるとは思えません。できるのは自分の体験を話すぐらいでそれを参考にして自分なりに何かを感じてもらえればもらえれば十分である、と思います。叱ることによって何かを生むとは思えません。

まあ一種の自由放任主義(レッセ・フェール)です。人の自由を制限することができる、関与することができるのは、他人の自由を奪うこと、つまり他人に迷惑をかけることだと思います。

私が気になるのは2つです。

一つはトレードオフ(自由には責任をともなう)です。家の都合で休んだけどそれを公欠扱いにと要求されると、カチンときます。

もしかしたら今は勉強するときではなくて家のことを優先する時かもしれません。本当は休学して家のことをやるべきなのですか、大学在籍を選んでいます。それにも関わらず、休んだわけですから、その代償は払うべきだと思います。フリーランチは存在しないということです。

その場合休むことを優先するように言います。その代わり単位は得られない、トレードオフであることを教えます。選択には何かを捨てるということだからです。


もう一つは外部不経済(他人の自由(権利)を脅かす)です。とくに私語は人の学ぶという自由を妨げます。一部の学生が私語をすることによって真面目に授業を受ける人の学びの機会を奪ってしまいます。

悩ましいのは、授業の私語は怒ったから減るものではありません。叱れば一旦静かになりますが、ずっと静寂になりません。関与の結果は一瞬だけです。

そうなると結局関与するよりも、聞きたくなる授業作りだなあと感じています。

新自由主義的教育思想を述べてみました。

<参考文献リスト>
バウマン(2012)『この世で一番おもしろいマクロ経済学』ダイヤモンド社
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2012年08月09日

自分の得意なものを見つける場所は「市場経済」

就職活動で学生さんから相談を受けるもののなかに,

「何をしたいのかわからない」
「どんな仕事が自分にあっているのかわからない」

というのがあります。私もおんなじ悩みを持っていたので,その気持もよくわかります。

自分のやりたいものをどう見つけるか,これはさまざまな人と接して自分を相対化させ,自分は人より何が得意なのか,見つけていくしかないありません。

つまり,市場競争に参加しましょうということです。自由主義市場経済の本質は自分と他者との相対化にあります。

経済学では,自らが合理的に(自分のことだけを考えて)意思決定して,他者との相互依存(市場取引)を行えば,社会的に皆の満足が高いという状況になると教えています。市場経済では,自分の得意なものを提供して,不得なものを得るようにすればお互いが満足します。

市場経済社会に住む私たちは,市場(社会)での取引活動を通じて,あるいは大学時代は他者との競争や取引を通じて,自分を見つめ,探していく必要があります。

自分には頑丈な体しかない,というのであれば,体力勝負な引越しアルバイトに参加して,労働を提供し,金銭を得ることができます。体力もない金もないけど自分で引越しするぐらいなら引越代を支払っていいという人にとってみれば,これはありがたい交換です。引越しする人はお金を使って,体力に自信がある人は荷物を運んで,双方ともに満足が行きます。

問題は,自分以外にも体力に自信があるという人がいるということです。この場合,自分の体力は本当に人より得意なものなのかどうかわかりません。人と比べてみることによって初めて自分の体力の位置づけがわかります。

そこで,体力競争に参加します。マラソン,野球,サッカー,格闘技などなどさまざまなスポーツがある中で,どれかに参加し他者と比べると自分の相対的な位置づけがわかります。

もしマラソンに合わなければ,短距離というのもありますし,あるいは走り幅跳びといった障害ものに参入するというのもひとつでしょう。このようにさまざまなスポーツに参加し,試合して自らの「得意なもの」をみつけ伸ばしていくことができます。

これはまさに市場競争です。一つの土俵にあがって,そのルールで自分の得意なものを提供する,負ければ自分の得意なものを探して,また別の土俵にあがっていく。そう繰り返すことによって自らの良さを見つけることができます。

ただ,気をつけないといけないのは競争によって自分が人より優っている,あるいは優っていないというのを見つけるのではなく,

自分がもっているものの中で,「比較的」に何が得意か

を見つけるということです。競争という言葉は,敗者を産み,格差を生むもとだと批判されますが,競争の本当の意味は自らの中の比較優位を探すという行為です。そのために競争があります。

ハイエクも競争は,「誰が一番すぐれているか,誰が一番上手にこなすかということを,予め知ることができない場合に用いられるすぐれた発見の装置である。」といいます。自分の中で何が得意かを見つけることが重要で,他人との比較で何ができるかはあまり重要ではありません。

自分の中で得意なものを活かしていく,伸ばしていくことが重要になります。

私たちの普段の生活で,市場という言葉を使う必要はありません。でも,他人と接する,相互に話をする,知らない人と接する,このような他者との相互依存関係を通じて,自分を振り返り,自らの良さを見つけていく場所が市場です。つまり他者と接する場所が市場と考えていいです。

大学はまさに「相互依存」の場所(市場)です。常に同じ友達というのも居心地はいいですが,大学行事やクラブ・サークル,新たな科目履修などを通じて,できるだけ多くの人と出会い,自らを見つめていってほしいとおもいます。

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2012年07月24日

市場経済化とコミュニケーション能力

大学では,学生のコミュニケーション能力(略してコミュ力)をあげようということが話題になります。最近では企業までもが学生に求めるのはコミュ力といってはばかりません。

本当に今の学生のコミュ力が問題なのかどうかはわかりませんが,とにかくコミ力アップだぁといったことが叫ばれ,そのような自己啓発セミナーも増えて,参加するという学生もいるようです(怪しいセミナーで騙される学生もいるとか)。

コミュ力が何かはここでは考えないで,あえてコミュ力が低下したという前提を認めたら,そのコミュ力低下はどこに求められるのでしょう?何が原因なんでしょうか?

私は市場経済化という現象に原因があるのではと考えています。

とくにネットによって市場は大きく変わりました。どこに住んでいても,いつでも必要なモノや情報が手に入ります。ネットができたころは,ネットでモノやサービスを買うのは騙されるのではというのもありましたが,今は多くの人が平気でクレジットカードを登録したりします。(もちろん技術進歩もあってネットの信頼性が向上したというのもあります。)

究極の市場経済化は,匿名の人からも安心してモノが買えるというものです。価格にすべての情報が含まれている場合は,価格を参考にしてモノを買うわけで,売っているものがどういうものなのか,不必要な詮索をしなくてすみます。つまり言葉で価格の裏にあるモノの情報をとる必要がなくなっています。

とくにネットは文字情報が価格の補足手段になっているように思います。見て読んで買う,これで取引がされる。こうなるとますます口頭での会話機会は減少します。

ついでに言うと,ネットによってメールでコミュニケーションというのが普通になりました。私の世代は「メール」は郵便物のようなもので即レスポンスがあるものとは思っていません。でも若い人にとっては,メールはチャットのような現場での会話手段にとって代わるものというぐらいの位置づけになっているように思います。

メールやSNSが会話の補助手段ではなく,代替手段になってきているのかもしれません。メールも本当は普段の日常の口頭での会話を補助すべきものですが,むしろ面と向かって話すよりも言いやすいといった点から会話の代替的ツールになってきているという側面もあります。

人の表情を見ながら,話しかけるという普通の会話が減ってきているのかもしれません。

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2012年05月29日

大学機会費用の上昇


大学に求められることが増えてきたように思います。日本の大学では,学生を入学させたらあとは放っておくというのが当たり前でした。一時期は大学のディズニーランド化などとも言われました。

その世代の子供達が大学に入るようになって,大学は様変わりしてきました。いかに面倒を見るかです。ディズニーランド化した大学を出たお父さんにはあまりピンとこないことなのかもしれませんが,昨今の就職事情を心配するお母さんにとっては重要な関心事になっています。

大学では,まず入学したら,入学後の導入教育をどのように行うか,さまざまなプログラムが用意されます。合宿などを行なって友人を作るようにする,導入教育では,レポートの書き方や授業での黒板の写し方など,大学での勉強に必須な技術が教えられています。

大学では,退学率という数値は面倒見のバロメーターです。退学率が高いと,あの大学は学生に何もやっていないとして見られがちです。そこで,単位の習得が遅れている学生や出席状況の悪い学生は,学生相談室や少人数教育の担当の先生がこまめにチェック,そして相談に乗るようにしています。

大学では,3年になると就職支援が本格化します。教職課程や介護などの福祉,そして司書など資格に備えたいわゆるダブルスクールが用意されます。一般企業を目指す学生のためにも,キャリア教育というコースが設けられています。そしてキャリアセンターが各個人と面談しながら就職のサポートを行います。

このように,導入教育,学生相談,就職支援は現在どの大学も行なっている当然のコースです。これだけで面倒見がいいとはいえませんが,少なくともバブル崩壊までの大学とは大きく様変わりしています。

なぜ,大学にやることが増えたのでしょうか?もちろん今までやるべき教育をやっていなかったというのもそうですが,それだけではないように思います。

やはりこれは就職活動の難度上昇によって,相対的に大学に入る機会費用が高くなったと考えられます。

機会費用とは,それを選択しなかったときに得られたであろうものをあきらめた金額です。大学の機会費用とは,大学進学を選択することによって放棄したものです。大学行く4年間,例えばフリーターであれ,正社員であれ働いたら得ることができたであろう金額が大学の機会費用となります。実際には,4年間の学費もあるので,ここでは大学の機会費用を単純に以下のように設定します。

年収200万円×4年間(機会費用)+学費100万円×4年間=1,200万円

となります。大学卒業後,新卒で仕事が見つかったとして,その年収を250万円と仮定します。1,200万円の投資を回収するには4年10ヶ月程度かかります(割引率は考慮しない)。

ところが就職難を考慮して(実際には就職難というよりミスマッチングで就職が決まらないパターンが多い),就職できる確率が60%としましょう(一般に大卒の就職率は6割程度)。そうすると新卒で期待できる所得は

年収250万円×0.6=150万円

となります。これが期待所得です。4年間の投資金額1,200万円を回収するには8年間かかることになります。

70年代,80年代の学生が大学に行くことによる機会費用は低かったと思われます。遊んで暮らしても就職は確実でしたし,親にお金を出してもらって大学生活を堪能するのは簡単であったと思います。

今はそうはいかないようです。就職率の低下によって期待所得が低下している状況では,大学にいく機会費用は相対的に上がっているといえます。親からすると,子には大学生活をエンジョイするのではなく,勉強して就職を決めてほしいという期待がでます。そしてそのために支払っている大学の学費は実質的に高いものとなるので,

「払った分,しっかり就職面倒みろよ」

となるわけです。これはまっとうな要求のように思います。大学側も4年間という時間を捨てて大学に来ている学生により一層向き合う必要があるように思います。

一教員としては授業の機会費用が上昇していることを考えて,授業に取り組む必要があるのかもしれません。
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2012年01月24日

シラバス

シラバス改訂の時期が終わりました。今年はとくに変更が大きく,それも認証協会の指導に基づくものです。

ポイントは

学習のねらい
学習の到達目標
成績評価のポイント
成績評価の基準

の充実でした。私の大学時代は,ねらいが曖昧で,先生によっては教科書指定しても,使わない,内容に入らない,全部終わらない,何を評価するのかわからない授業が普通でした。

今回シラバスを修正しながら,ここまできちんと書くようになると中学高校の教科学習と同じだなと思いました。目的を明確にして,その目的に到達するためにどのように授業を組み立てるか,教員の教員たるスキルが必要とされているわけです。

とくに到達目標の設定は,「何を教え,どこまでの到達を目標とするか」を考えさせるものです。これは授業組み立てに大きな再考が求められると思います。

また目標と評価が明示されることにより,学習者(学生)が学べたかどうか,教員がチェックできます。学習者の到達があまりよくない場合,教員の教え方を反省させるものにもなります。学生のせいにするのではなく,教員が学生を目標まで連れて行く,その方法が問われるわけです。

ただ困ったのは演習のシラバス記入です。もちろん演習にも到達目標はあるべきなのですが,プロセス(調べ,読み,書き,発表する)を学ぶのが演習ですので,シラバスがやや作成しにくかったです。

大学の授業をより良くするためにシラバスを振り返るというのはいい作業です。教員の教えるスキルを向上させる意味では重要なツールになるかと思います。

一方で,目的や何をやるかをはっきりさせると,学生さんにとって学びやすくなる反面,社会現象に対して「なぜそうなのか」という問いを立てて自らが学ぶという姿勢を持ちにくくなるかなとも思いました。
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